今回も前回の東福寺南明院に続いて、卵塔と自然石の墓について別の例をあげてみます。

 品川にある東海寺の大山墓地には、江戸初期の僧である沢庵和尚の墓があります。 この墓は、門と竹垣で囲われた中に、石敷きの参道が延びて、灯篭と花立、石の香炉が置かれ、石の柵で囲われた中心に、自然石が置かれています。
 どうしてこのような変わった形になったのかと言うと、沢庵和尚の遺言に理由があ ...

三種類が記録された信長の墓の内、卵塔と現在の自然石の形態は、同じ墓石の改修前と改修後の姿であると思われるので、ここでは自然石と卵塔の墓について例を挙げて説明します。

 東福寺三門二階の天井や梁には、室町時代の画僧、明兆の画いた絵が残っています。この明兆さんは、東福寺塔頭南端にある南明院の二代目住職で、淡路に生まれ、北宋の李龍明の画法を学び、寺院専属の画家として活躍した人物で、僧侶 ...

安土城、伝二の丸跡にある信長の墓は、
亀甲積で作られた二段の台座の上に、
自然石がのせられているという、
変った形をしています。

この墓が現在の形になったのは、
伝二の丸の下に立っている
護国駄都塔の裏に彫られた文から、
天保年間(1830~1843)の
改修工事によってだと
考えられるのですが、

天保の ...

考察

木曽路名所図会の記事によると、摠見寺の二階は、
「閣上より見下せば湖水渺々として風色いちじるし」
というように、湖の眺めが楽しめたようです。

摠見寺本堂の位置から湖が眺められるのは、
西と北の方角になるのですが、

摠見寺境内絵図を見ると、本堂の西側には
梁行八間の庫裏が棟をずらす形で建てられています。

禅宗寺院の庫裏は屋根が ...

大阪の吹田市にある大光寺の鐘は、
明治時代に安土城にある 摠見寺 から売られたもので、

梵鐘の由来を記した掲額によると、

 寛永二十年十月に飯田加衛門入道宗運が鋳造。
 大きさは高さ5尺、口径2尺9寸、

とされているのですが、
摠見寺と、超光寺の鐘銘からして、
この鐘は天保二年に作ったものと考えられるので、

大阪 ...

考察

フロイスの「日本史」(松田毅一訳)によると、

摠見寺の創建時に、二階に置かれた物について、

「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。
 それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、
 信長は、予自らが神体である、と言っていた。
 しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が
 他の偶像へのそれに劣ることがないように ...

雑記

新年度になったので?気分を変えて、
建物内部の間取りを考えているのですが、

昨年5月に、「摠見寺、信長像」の記事の中で、

>パンフレットには、信長像の横幅は書いてありませんでしたが、
>安置されている場所の状況から見て、
>横幅約90㎝奥行約60㎝位、だと思われます。

と、考察しましたが、
東牌堂と御霊屋周 ...

考察

2月に、亰の冬の旅で東福寺山門が特別公開されていたので見に行ってきました。

建物内では写真撮影禁止だったので、外観だけ。
二階の扉は中央部分のみ開けられ、二重の幕で覆われていたので、

内部の照明の明るさに慣れるまでは、細かい部分が良くわからない状態でした。

通常の寺院の山門は、梁のすぐ上に鏡天井が張られていて、
天井が低い感じがするのですが ...

考察

甲賀市水口町にある大池寺の由来
—大池寺の碑文より—

「臨済宗 大池禅寺
当山は、天平年間に行基菩薩が開
創されたと伝えられている。潅漑用に
心字の池を掘り、その中央に寺を建
て、一刀三礼の作と称せられる丈六座
像の釈迦如来像を安置し、邯鄲山青蓮
寺と称して国泰安民の祈願所とされた。
 南北朝 ...

考察

これまでの考察で、摠見寺本堂の前身寺院は、

三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。

甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、

長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、

西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城 ...