三間堂を五間堂に増築
昭和49年発行の「滋賀県史跡調査報告11」の中に、
摠見寺本堂跡の実測図があり、
その図では、本堂梁行中央間は、
内陣梁間にあわせて外側の柱間も9.25尺になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/c2/891934a736d0d0585a38c92efe19eca8.jpg)
この柱間寸法の復元数値は、
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」の、
まとめの部分でも踏襲されているので、
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」P86
「側柱の柱間を桁行・梁行とも8尺等間にとっていること、」
という文は、単なる書き間違いであると考えられ、
摠見寺本堂の柱間は、桁行が八尺等間で、
梁行が変則の柱間であると考えられるのですが、
通常の五間堂は、桁行方向は中央間が広いか、脇間が狭いかのどちらかで、
等間というのは、ほとんど例がありません。
この、
非常に珍しい平面がどうして出来上がったのかと考えると・・・。
滋賀県・湖東三山の西明寺本堂は、桁行が七間ある七間堂なのですが、
通常の七間堂より、軒高が低くて落ち着いた印象があります。
これは、鎌倉時代に建てられた五間堂の柱・組物をそのまま再利用して
改造したためで、軒高は五間堂の平均的な高さのまま拡大されたので、
西明寺本堂は、七間堂としての標準的なプロポーションをもっていません。
摠見寺の前身寺院が、増築によって作られたものと考えれば、
桁行と梁行の柱間の矛盾が説明できるのではないでしょうか。
つまり、初めに海龍王寺や海住山寺文珠堂のような三間堂があって、
それを増築して五間堂になったと考えれば、
海住山寺文珠堂は、桁行が8尺3間で梁間が7尺2間、
海龍王寺西金堂は、桁行が10尺3間で梁間が10尺2間、
海龍王寺経蔵は、 桁行が8尺3間で梁間が8.7尺2間
という例からして、三間堂の桁行は等間が原則であり、また、
摠見寺の内陣部分の、桁行が8尺3間で梁間が9.25尺2間という寸法は、
三間堂としても問題ない寸法だと考えれられ、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/c6/711a4e276f1ec1a5748c390e1fa11308.jpg)
この三間堂を増築して、五間堂に拡大しようとすると、
中央の桁行三間部分は、必ず八尺等間になり、
通常の五間堂のように桁行を変化させようとすると、
両端の脇間を狭くするしかなくなるのだが、
八尺等間にした場合の、桁行合計40尺というサイズでも、
五間堂としては小さ目であり、
三間堂を増築して五間堂にするという制約のために、
桁行八尺等間になったと思われます。
梁行に関しては、桁行八尺等間なら外陣部分の梁間も八尺二間となり、
その後ろに内陣9.25尺二間が納まり、
鎌倉~南北朝時代の五間堂にいくつか例のある、
桁行より梁行が少しだけ長い、ほぼ正方形平面にするために、
梁行中央間を内陳梁間にあわせ、残りの側柱二間は
柱間をすこしずつ低減させて納めれば、
発掘された礎石配置のような平面になります。
ということで、
摠見寺本堂の前身寺院は、
三間堂をもとにして、五間堂に増築されたものと考えます。
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