辯財天の移動

慶長十三年(1608)の奥書のある、「正仲剛可置文」といわれる文書には、

本尊觀世音、信長様御拝、遍いさいてん

と書かれているので、慶長の頃には、
弁才天は本堂内に安置されていたのに、

延享二年(1745)の「遠景山摠見寺禅寺校割帳」の搭之内の項目に、

一辯才天 摠見寺殿竹生島ヨリ勧請安置

と記されているので、江戸時代中期には
弁才天が三重塔へ移されていることがわかります。

現在の禅寺でも、弁才天を安置している所もある上に、
正仲剛可の頃には、弁才天は本堂に安置されていたのだから、
一字金輪仏頂尊とは違って、宗派の変更が理由で
弁才天を三重塔に移した訳ではないし、

延享の記録にも、摠見寺殿竹生島ヨリ勧請安置とある以上、
弁才天が、信長に縁の深い由緒のある仏像だと、
摠見寺でも認識していたものと思われます。

秀頼・淀殿による摠見寺の修復は、慶長九年の事なので、
摠見寺修復による工事の為でもなく、

慶長十三年以降、延享年間までの間に、摠見寺に起こった変化というと、

元禄8年(1695)に、
大和国、宇陀松山藩織田家が、丹波国柏原藩に減転封になった事に伴い、
宇陀松山藩の菩提寺である徳源寺も収公されたので、
徳源寺にあった織田家の藩主の墓が、摠見寺に改葬された事が挙げられます。

大名の墓を摠見寺に改葬という事は、墓だけを持って来るわけも無く、
位牌も一緒に摠見寺に持って来たはずで、

この時以降、摠見寺は、信長個人を祀る菩提寺から、
織田家の菩提寺へと変化したと考えられます。

大名家の位牌は一般的に言って、
非常に大きい上に、間隔を開けて配され、
また、織田家の菩提寺としては、藩主の画像もあったかも知れないし、
この頃には、歴代住職の位牌も増えてきているので、

元禄年間に、丹波国柏原藩の援助により、織田家の菩提寺になるべく、
もともと、本堂内の脇壇に安置されていた弁才天を三重塔に移して、
脇壇を、位牌置き場に改造したのではないかと思われます。

考察

Posted by 淳也