考察

本堂東側の鎮守社について、

祭神は熱田大神宮との伝承で、通常より横長の社殿なのは、
熱田の五柱の神座を置くためと考えられることから、
中央は熱田社で良いと思われます。

問題なのが南側の”石組遺構1”で、記録には
梁行3尺・桁行□尺6寸の鎮守社、と書かれているのだが、
現在この場所には、(発掘調査報告書P15)
「宝篋印塔の台座が ...

考察

慶長十三年(1608)の奥書のある、「正仲剛可置文」といわれる文書には、

本尊觀世音、信長様御拝、遍いさいてん

と書かれているので、慶長の頃には、
弁才天は本堂内に安置されていたのに、

延享二年(1745)の「遠景山摠見寺禅寺校割帳」の搭之内の項目に、

一辯才天 摠見寺殿竹生島ヨリ勧請安置

と記されているので、江戸時代中期に ...

考察

江戸時代の摠見寺の記録によると、

本堂に安置されている本尊は、十一面觀音で、
脇侍に文珠菩薩・普賢菩薩が配されていたとか、

基本的には、文珠菩薩・普賢菩薩は釈迦如来の脇侍である上に、
菩薩の脇侍に菩薩が安置されるというのは非常におかしい、

でも、このように安置されていた以上、
安置した人は、この形態でもOKだと思っていたわけで、 ...

雑記

昭和の安土城発掘の記事が載っている
滋賀県史跡調査報告11、には、
摠見寺の記録も併せて載っていたのだが、
天主関係の部分しかコピー取ってなかった(><。)

東京都立図書館は今年いっぱい改装中で、
ほとんど資料が取れない状況で・・・。

と思ったら多摩図書館にも、滋賀県史跡調査報告が
蔵書してあるらしい。

多摩へ行くに ...

考察

摠見寺の創建時の本尊は、
一字金輪仏頂尊ではないかと。

ちょっとまだ資料が足りないようなので、
確定できないのだが、

正仲剛可置文と称される資料のコピーは、
何かに載ってるのかな?

考察

信長公記に書かれている、
摠見寺 毘沙門堂御舞台 については、

秋田裕毅氏の考察「織田信長と安土城」
による形式で良いと考えられます。

異常に?細長い、江戸時代の 摠見寺 書院が、
信長当時の能舞台の桟敷席を改造したもので、

能舞台は、庫裏跡の北西隅、地謡座を石垣線に合わせ、
後座は懸け造りにした状態で配置して、
南 ...

縁側

摠見寺の記録には、
5尺の縁側があったことになっているのだが、

調査報告の図を見ても、
縁側があったようにはとても思えない。

だいたい、
北側の縁束の礎石は全て残っているのに、
それ以外の縁束の礎石が全て紛失するとは思えないし、
縁側として一段高くなっていると、
正面の石段との取り合いも悪いのではないか。

床 ...

考察

発掘調査報告書によると、本堂の外柱は、
桁行、梁行共に、八尺等間であると書いてあるのですが、

図を見ると、桁行は八尺等間で五間に違いないが、
梁行方向は、どう見ても等間では無い!

南側から三間目は他より広く、五間目は他より狭いのは明らかなので、
どういう根拠で、八尺等間であると書いたのか?不思議です。

外側の柱の配置だけ見ると、国宝 ...

考察

摠見寺の平面図を見て、一見して違いがわかるのが来迎柱の後退で、

室町時代になると、来迎柱が後退して内陣を広く取った堂が出てくるのだが、

普通は中央の二本のみ後退させて、両側は通常の位置に立たせるのに、
摠見寺の平面では、来迎柱が四本とも後退していて、非常に珍しい、

何か類例を探す必要がありそうです。

雑記

ということで、3/29・30に安土城に行って来ました。
29日に鈴鹿を越えて甲賀や日野の寺院を回ってから安土城へ、

摠見寺の説明では新聞の取材も来ていたが、
発掘調査報告書以上の内容は無いようだった。 

安土城考古博物館の所長が、摠見寺下層遺構の礎石について、
天主完成前の信長の仮御殿の可能性も・・・。と言っていたが、
インターネットの ...