東福寺南明院(信長の墓2)

三種類が記録された信長の墓の内、卵塔と現在の自然石の形態は、同じ墓石の改修前と改修後の姿であると思われるので、ここでは自然石と卵塔の墓について例を挙げて説明します。

 東福寺三門二階の天井や梁には、室町時代の画僧、明兆の画いた絵が残っています。この明兆さんは、東福寺塔頭南端にある南明院の二代目住職で、淡路に生まれ、北宋の李龍明の画法を学び、寺院専属の画家として活躍した人物で、僧侶としての位は仏殿の管理を務める殿主であったために兆殿主とも呼ばれています。

 三門公開の時の説明の人から、明兆さんの墓が南明院の南にある墓地に残っていると聞いて、お墓参りに行ってみました。

南明院は、東福寺南門(六波羅門)を出て南に歩いて行くと道が上下に分岐している所にあります。 

この南明院の裏の墓地に回ると、秀吉の妹で徳川家康に嫁いだ朝日姫の墓が建っています。

 この墓は、上下で石の質が違うので、元は上部の五輪塔だけが地面に据えられていたものが、改修の際に下の台座が付け加えられたものと思われます。 

墓地を改修する場合、このように元の墓石を立派に見せるために台座が付け加えられる事はよくあるので、安土城にある信長の墓も、亀甲積の二重の台座部分は、天保年間の改修の時に付け加えられた物である可能性が指摘できます。

さて、その南明院を出て、分岐の下の道に入り住宅地の中を下って行くと、T字路に突き当たります。

 このT字路を左(東)に曲がり、最初の角を右に曲がって坂道を上ると、住宅案内の看板が道端に立っています。

この案内看板に書かれている藤原俊成卿墓所、というのが南明院の墓地で、この中に明兆さんのお墓もあります。 昔の記録には南明院南の山林の中にあると書かれているのですが、現在では完全に住宅地のまんなかのような場所にあります。

入口には案内の石碑が立っていますが、これが無かったら完全に民家の入口としか思えない場所です。

 ここの路地を入ると、右側奥に石段があり、石段正面に塀に囲まれた一郭があり、この場所が、南明院初代住職の業仲明紹と明兆の自然石墓と、鎌倉初期の歌人、藤原俊成とその子孫の浄如尼の五輪塔のある場所です。

 入口には、五条三位俊成卿、東福寺兆殿主墓地、の石碑が立っています。
  下の写真、画面左の自然石が南明院開山、業仲明紹の墓で、左上の自然石が、三門天井画をかいた明兆(兆殿主)の墓、右側手前の大きい方の五輪塔が五条三位と呼ばれた藤原俊成の墓、右端の小さい方の五輪塔が浄如尼の墓と伝えられています。 

 明兆さんの頃は自然石を墓にしていた南明院でも、時代が下ると普通の墓が欲しくなるようで、脇の墓地には卵塔が墓石として並んでいます。

  おもしろいのが、手前の卵塔はただの切石の台座に乗せただけなのに、だんだん台座が高くなって行き、台座にも装飾が付けられるようになっていく所です。 卵塔は無縫塔とも呼ばれ、語源である、縫い目がない石を追求していけば最終的には自然石になるので、この南明院の墓所は、最初の住職の墓所は純粋に自然石を墓石にしたものの、代が下るにしたがって、無縫塔と呼べる範囲内で少しでも立派な墓にしたい、という残された弟子の思いがあったのではないでしょうか?

この南明院墓地の墓石の進化の流れから考えれば、明兆さんのお墓も、墓石の分類で言えば卵塔の一種と言えないこともありません。

 天保年間に改修される以前の安土城にある信長の墓が、明兆さんの墓のように、低い簡単な台座の上に自然石が乗っている姿であった場合、墓石の分類名から言えば卵塔と記録されても不自然では無いので、 最初に作られた信長の墓は、現在の亀甲積の台座の上に乗せられている自然石が、低い簡単な台座の上に乗せられた、明兆さんの墓のような形態であったと考えられます。

    さて、残された問題は、中山道名所図会に画かれた五輪塔です、これは、簡単に言ってしまえば書き間違いと思われるのですが、どうして書き間違う事になったのか、

次回は品川にあるお墓を訪ねてみたいと思います。

Posted by 淳也