信長150回忌法要その2
2009-05-08 22:27:59 | 資料
享保16(1731)年の信長150回忌法要について、
記録の動きから式次第を作ってみました。
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信長150回忌法要
摠見寺殿一百五十年諱法會當日式
六月二日、辰の刻、
一番大鐘(だいしょう)、大衆(だいしゅ)衣を整う。
二番殿鐘(でんしょう)、大衆出頭。
衆集いて殿鐘を上げむ、
両序(りょうじょ)立班(りつはん)、大衆同じく立つ。
拈香(ねんこう)和尚に告報(こくほう)す、
和尚、侍衣(じえ)侍香(じこう)聴呼(ちょうこ)を相(あい)随( ...
摠見寺の扁額 その2
12月の記事摠見寺の扁額 その1 の続編。
摠見寺には、江戸時代の校割帳に載っていない扁額があって、
それが、写真上記の、額面に「扶桑第一山」と書かれた物です。
この扁額は形状から言って、
楼門に懸けられていたものと推測でき、また
現存するのに校割帳に書かれていないということは、
人の立ち入らない楼門内に保管され、忘れ去られていたと考え ...
木魚が無い!!!
現在本堂の内部構造を考察中で、
摠見寺文書の中の「遠景山見禅寺校割帳」などにより、
本堂内部に置かれた物を調べているのだが、
それによると、江戸時代(1745年)の摠見寺本堂には、
木魚が無い!!!
磬と鈴(この読みは”りん”だと思われる、別名磬子)はあるのに、
お寺の本堂に、当然あるべきはずの木魚が無いの ...
圓光寺学校
摠見寺の事実上の四代目住職は“圓光寺学校”とされているが、
これってどう見ても組織名であって、
個人名ではないのではないかと思われるので、ネットで調べてみた。
>圓光寺学校
>慶長6(1601)年に徳川家康が、足利学校第9代目学頭の
>三要元佶(さんようげんきつ)(天文17(1548)-慶長17(1612)5/20)
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摠見寺の扁額 その1
「安土山摠見禅寺舊記寫」によると、
佛殿二階の閣には「円通閣」の額一面が掛けられていたとある。
円通とは、観音の別名である、円通大士によるものなので、
本堂二階に本尊として観音が安置された事により、
「円通閣」の扁額が掛けられたものと考えられる。
そして、この扁額の文字については、「小嶌宗心筆」とあり、
こじまそうしん、とは江戸初期 ...
一字金輪仏頂尊
11/22に摠見寺コンペに行ったついでに、
安土町の図書館で資料のコピーを取ってきました。
コンペが終わってからだったので、5時過ぎから6時の閉館まで、
大量のコピーに対応していただいた図書館の方、ありがとうございました(^^)。
で、摠見寺文書を見てみると、
松茸を贈った記録なんて、わざわざ取っておかなくても……
というのは別の話 ...
類例発見
摠見寺本堂の礎石配置の平面は、
桁行きより梁行きが若干長く、来迎柱が四本後退していて、
中世密教本堂の五間堂としては類例が無いと思っていたのだが、
似たような例を発見した。
温泉寺本堂は、桁行き12.66m、梁行き12.85mで、来迎柱四本後退。
中山寺本堂も、桁行き13.15m、梁行き13.49mで、来迎柱四本後退。
先日出てきた、側 ...
中途半端な発掘調査?
先週コピーしてきた、安土城跡発掘調査報告6を読んでいるのだが、
始めは、コレだけで基本データーはOKとばかり思っていたのだが、
どう考えても誤植と思われる、変な個所があったりする。
本堂に関するデーターは意外と少ないようだし、
二階の大きさは
手持ちの「安土城・信長の夢」サンライズ出版では、
二間半四方になっているのに、
安土城 ...
安土城跡発掘調査報告6
先週コピーしてきた、安土城跡発掘調査報告6を読んでいるのだが、
始めは、コレだけで基本データーはOKとばかり思っていたのだが、
どう考えても誤植と思われる、変な個所があったりする。
本堂に関するデーターは意外と少ないようだし、
二階の大きさは
手持ちの「安土城・信長の夢」サンライズ出版では、
二間半四方になっているのに、
安土城 ...