考察

木曽路名所図会の記事によると、摠見寺の二階は、
「閣上より見下せば湖水渺々として風色いちじるし」
というように、湖の眺めが楽しめたようです。

摠見寺本堂の位置から湖が眺められるのは、
西と北の方角になるのですが、

摠見寺境内絵図を見ると、本堂の西側には
梁行八間の庫裏が棟をずらす形で建てられています。

禅宗寺院の庫裏は屋根が ...

考察

フロイスの「日本史」(松田毅一訳)によると、

摠見寺の創建時に、二階に置かれた物について、

「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。
 それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、
 信長は、予自らが神体である、と言っていた。
 しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が
 他の偶像へのそれに劣ることがないように ...

考察

2月に、亰の冬の旅で東福寺山門が特別公開されていたので見に行ってきました。

建物内では写真撮影禁止だったので、外観だけ。
二階の扉は中央部分のみ開けられ、二重の幕で覆われていたので、

内部の照明の明るさに慣れるまでは、細かい部分が良くわからない状態でした。

通常の寺院の山門は、梁のすぐ上に鏡天井が張られていて、
天井が低い感じがするのですが ...

考察

甲賀市水口町にある大池寺の由来
—大池寺の碑文より—

「臨済宗 大池禅寺
当山は、天平年間に行基菩薩が開
創されたと伝えられている。潅漑用に
心字の池を掘り、その中央に寺を建
て、一刀三礼の作と称せられる丈六座
像の釈迦如来像を安置し、邯鄲山青蓮
寺と称して国泰安民の祈願所とされた。
 南北朝 ...

考察

これまでの考察で、摠見寺本堂の前身寺院は、

三間堂を五間堂に拡張されたもので、
一枝寸法は、0.6666尺 と推測しました。

甲賀周辺の中世密教本堂の例をみると、

長寿寺・円光寺・西明寺前身堂が鎌倉時代、
桑実寺が南北朝時代に作られた五間堂であり、

西明寺本堂の七間堂への改装が南北朝時代、
金剛輪寺・善水寺・常楽寺・園城 ...

考察

寛政三年の「境内坪数並建物明細書」によると、
摠見寺本堂の屋根は出組と書かれています。

「匠明」の木割では、
出組の軒の出は地垂木の出7支、飛檐垂木5支となっていて、
垂木本数でいうと丸桁から地垂木6本、飛檐垂木5本で
軒を構成することになっています。

実際の類例を見ても、出組の五間堂の場合、
地垂木6本、飛檐垂木5本が一般的の ...

考察

「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」によると、P17

建物8(書院跡)の入口に当たるL字型の花崗岩切石の前面に、
南北方向に向かって伸びる瓦敷きの遺構があり、
建物8(書院)への導入路になっている。

と、されているのですが、

寛政三年の「境内坪数並建物明細書」には、

書院には式台があって、入口には明き五尺一寸の玄関門が建っている、 ...

考察

昭和49年発行の「滋賀県史跡調査報告11」の中に、
摠見寺本堂跡の実測図があり、

その図では、本堂梁行中央間は、
内陣梁間にあわせて外側の柱間も9.25尺になっています。

この柱間寸法の復元数値は、
「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」の、
まとめの部分でも踏襲されているので、

「特別史跡安土城跡発掘調査報告6」P86 ...

考察

2010.05.06の記事から、本堂の考察が止まっていましたが、

やっと、条件をみたす構成にたどりついたので、少しづつですが進めていきます。

さて、

安土城跡発掘調査報告6、によると、

摠見寺(そうけんじ)本堂は

P86「側柱の柱間を桁行・梁行とも八尺等間にとっている」 とされていて、

前の摠見寺コンペの参加チームも、す ...

考察

最近の?学説では、摠見寺の歴代住職は

実際の開山が尭照、
公式の開山が正仲、
正仲死後に 玉甫、
その後 圓光寺学校、

という事になっているが、
正仲死後に住職になった玉甫は、織田系譜によると天正19年10/24に死亡、
玉甫の息子の正仲は、慶長16年1/8に死亡(舊記寫)で、年代が矛盾している。

「織田信長と安土城 ...