考察

摠見寺本堂二階に安置された盆山は、
信長の化身として、
信長が仏の上に君臨するために、二階に安置した、
ということに一般的にはなっているようです。

この解釈は、とりあえず間違ってはいないとは思いますが、

摠見寺本堂の二階を、禅宗仏殿の三間堂に復元して、須彌壇を置くと、

一階の内陣が広くなっていて、さらに来迎壁が後退していることから、 ...

考察

摠見寺の絵図(伽藍配置図)を見ると、本堂は、
一般的な裳階付き仏堂のようにしか描かれていないので、

絵図だけでは、とても二階があるようには見えないが、
記録には、二階に観音像が安置されていたとあるので、
二階の空間が、何らかの形で存在しなければおかしい・・・。

絵図には、屋根の両脇の線が、組物のすぐ下に付いているのだが、
柱の部分は、若 ...

考察

発掘調査報告書6では、
摠見寺本堂外側柱は八尺等間ということになっていますが、

測量図を見ると、側面中央の柱間は八尺より明らかに大きいし、
後ろの柱間は明らかに八尺より狭く見える。

一支寸法の所でもふれていますが、
一支寸法0.5714尺で図面上の梁行き方向を重ねてみると、 
前から14・14・16・14・13・8支の位置で礎 ...

考察

ということで、
出組でありながら、出三斗や二手先に見える組物は・・・・。

金峯山寺の蔵王堂、一階の組物は、
正面から見ると一見、出三斗のようなのですが、
いちおう、一手出した肘木の上に桁が乗っているので、出組の一種です。

また、般若寺楼門の上層組物は、正面から見ると一見、
尾垂木もあるし、積み上げが高くて二手先のように見えるのですが、 ...

考察

発掘調査報告6 の資料によると、
本堂の組物は一階・二階共に「枡形出組」との事だが、

摠見寺境内絵図に書いてある絵は、
どう見ても、一階は出三斗、二階は尾垂木の無い二手先
にしか見えない。

三重塔の資料には「枡形三手先」と、正確な記事が見られるものの、

摠見寺境内絵図では、三重塔や楼門も尾垂木があるようには見えないので、
絵 ...

考察

摠見寺本堂二階の大きさの記録には、
二間四面と書かれている・・・?

江戸時代には、間面記法は正しく理解されていなかったのだから、
この二間四面とは、間面記法の二間四面では無いことは確かなのだが、

絵図に書かれる摠見寺本堂二階は、明らかに三間四方で、
三間四方をどう見れば、二間四面と言えるのだろうか?

と思ったら、三重塔も二間四面だそ ...

考察

摠見寺本堂の元になったと思われる、鎌倉~室町期の中世密教本堂では、
支割による単位寸法が使われているのが普通なので、
摠見寺の一支寸法を考えてみます。

まずは、一支寸法の範囲ですが、
南明寺の8寸から禅宗寺院系?の4寸ほどまであるうち、
中世密教本堂では主に、5~7寸辺りが使われる事が多いようです。

また、ほとんどの場合において、正面中 ...

考察

摠見寺本堂の基本となる尺度ですが、

発掘調査報告書の本堂図面をスキャナーで取り込んで、
縮尺を合わせて見ると・・・。

記録によると、正面柱間は40尺で八尺等間のはずだが、
少し礎石の間隔が広い気がする・・・。

礎石間隔からすると、外陣の5X2間の部分は、
どう考えても、柱間が八尺で統一されているはずだが、
八尺等間にすると、 ...

考察

信長のいたころの摠見寺の住職は、

津島牛頭天王社の尭照宝印で、真言宗の僧侶だった
とされているので、
創建当時の摠見寺には、
どこかに牛頭天王が祀られていなければおかしい。

牛頭天王を真言僧が祀れば、当然、護摩を修していたはずですが、

摠見寺の本堂は来迎壁を後退させて狭くなっていたので、
後堂に仏像を祀る事は出来ないし、 ...

考察

藤巻一保著の「第六天魔王信長」によると、

信長が個人的に信仰していた神は、起請文の記述から、
天満大自在天神・愛宕・白山權現 だと考えられるようです。

天満大自在天神は菅原道真に当てるのが一般的ですが、
仏典によると、大自在天とは第六天魔王の事なので、
信長が第六天魔王を称していた以上、
天満大自在天神=信長=盆山 ともする事が出来、 ...