資料

摠見寺の事実上の四代目住職は“圓光寺学校”とされているが、
これってどう見ても組織名であって、
個人名ではないのではないかと思われるので、ネットで調べてみた。

>圓光寺学校
>慶長6(1601)年に徳川家康が、足利学校第9代目学頭の
>三要元佶(さんようげんきつ)(天文17(1548)-慶長17(1612)5/20)
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考察

最近の?学説では、摠見寺の歴代住職は

実際の開山が尭照、
公式の開山が正仲、
正仲死後に 玉甫、
その後 圓光寺学校、

という事になっているが、
正仲死後に住職になった玉甫は、織田系譜によると天正19年10/24に死亡、
玉甫の息子の正仲は、慶長16年1/8に死亡(舊記寫)で、年代が矛盾している。

「織田信長と安土城 ...

資料

「安土山摠見禅寺舊記寫」によると、

佛殿二階の閣には「円通閣」の額一面が掛けられていたとある。

円通とは、観音の別名である、円通大士によるものなので、
本堂二階に本尊として観音が安置された事により、
「円通閣」の扁額が掛けられたものと考えられる。

そして、この扁額の文字については、「小嶌宗心筆」とあり、
こじまそうしん、とは江戸初期 ...

資料

11/22に摠見寺コンペに行ったついでに、
安土町の図書館で資料のコピーを取ってきました。

コンペが終わってからだったので、5時過ぎから6時の閉館まで、
大量のコピーに対応していただいた図書館の方、ありがとうございました(^^)。

で、摠見寺文書を見てみると、
松茸を贈った記録なんて、わざわざ取っておかなくても……

というのは別の話 ...

雑記

安土城考古博物館で行われた、摠見寺再建コンペを聴講してきました。

ということで、とりあえずコンペの感想。

新聞社とテレビ局も取材に来ていたが、
参加者は、学生と関係者がほとんどでした。

最優秀賞は、滋賀県立大学の「上総介ヲ宿ス」だったのだが、
個人的には、優秀賞だった鳥取環境大学のものが首席だと思いました。
ただ、鳥取環境大学の彼は ...

二週間も垂木支割りの計算を続けてると、いいかげん飽きてくるので?
今日はちょっと簡単な考察を・・・(^^)

摠見寺の表門は、記録によると表四足門との事で、

発掘調査報告書の復元案にも、
四足門の平面図で復元図が書かれています。

ところが、発掘した礎石の配置図を見ると、
あきらかに、薬医門の礎石配置だと思われます。

では、 ...

考察

摠見寺本堂二階に安置された盆山は、
信長の化身として、
信長が仏の上に君臨するために、二階に安置した、
ということに一般的にはなっているようです。

この解釈は、とりあえず間違ってはいないとは思いますが、

摠見寺本堂の二階を、禅宗仏殿の三間堂に復元して、須彌壇を置くと、

一階の内陣が広くなっていて、さらに来迎壁が後退していることから、 ...

雑記

摠見寺コンペの締切日を過ぎたので、
今日からブログ開店?です。

進捗状況は、といえば、
安土城復元案なみにスローペースで進んでいます。

7/22の記事に都立図書館へ資料のコピーを取りに、
などとは書いているものの、まだ行けてなかったり。(^^)

それにしても、摠見寺正面屋根の合計支数は、
ちょうど100支になるらしい (まだ ...

考察

摠見寺の絵図(伽藍配置図)を見ると、本堂は、
一般的な裳階付き仏堂のようにしか描かれていないので、

絵図だけでは、とても二階があるようには見えないが、
記録には、二階に観音像が安置されていたとあるので、
二階の空間が、何らかの形で存在しなければおかしい・・・。

絵図には、屋根の両脇の線が、組物のすぐ下に付いているのだが、
柱の部分は、若 ...

資料

摠見寺本堂の礎石配置の平面は、
桁行きより梁行きが若干長く、来迎柱が四本後退していて、
中世密教本堂の五間堂としては類例が無いと思っていたのだが、
似たような例を発見した。

温泉寺本堂は、桁行き12.66m、梁行き12.85mで、来迎柱四本後退。
中山寺本堂も、桁行き13.15m、梁行き13.49mで、来迎柱四本後退。

先日出てきた、側 ...