窓のない仏龕

フロイスの「日本史」(松田毅一訳)によると、

摠見寺の創建時に、二階に置かれた物について、

「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。
 それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、
 信長は、予自らが神体である、と言っていた。
 しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が
 他の偶像へのそれに劣ることがないように、

 ある人物が、それにふさわしい
 盆山と称せられる一個の石を持参した際、
 彼は寺院の一番高所、すべての仏の上に、
 一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、
 そこにその石を収納するように命じた。」

と書かれています。

この「窓のない仏龕」について、

秋田裕毅氏の「織田信長と安土城」P192の本の中では、

「この閣の部分は、摠見寺の一番高所、本尊の頭上、
 窓のない部屋となり、フロイスの記述と一致する。」

と書かれ、
二階部分は窓のない部屋になっていると解釈しているのですが、

木曽路名所図会の記事では、
「閣上より見下せば湖水渺々として風色いちじるし」

と書かれるように、閣からの眺めが記載されているのですから、
二階には窓があったと考えられ、
窓のない仏龕は、部屋の中に作られていたということになります。

そこで、「窓のない仏龕」の形態について考えてみると、
わざわざ「窓のない」と説明を付けて記述しているという事は、
フロイスにとっての仏龕とは、
窓のある状態が普通であると思っていた、ということになるのですが、

ヨーロッパの大聖堂の壁龕を考えてもらえればわかるのですが、
仏龕や壁龕というものは、本来壁の窪みの部分なので、
窓の付いている壁龕というものは、ほとんど例がありません。

ほとんど例のないものを、一般的なものだと考える人はいないので、
フロイスの言う仏龕の窓とは、通常言う所の「窓」では無いと考えられます。

それでは、何を窓と考えていたかというと、語源から考えれば、
そもそも「窓」というのは壁に開けた開口部の事なので、
壁龕の入口も、壁に開けられた一種の窓と言える事になります。

壁龕の入口が常に閉ざされて開けられることが無ければ、
それは「窓(開口部)のない仏龕」と表現するのにふさわしい状態ではないでしょうか。

また仏龕というからには、基本的な形状は、
壁に開けられた開口部であると考えられ、

以上の事から、摠見寺二階に作られた「窓のない仏龕」とは、
和歌山県にある善福院釈迦堂のような、
来迎壁に扉が付けられ、壁の後ろ側が廚子になっている状態であれば、
資料に書かれる条件を満たすことができます。

さらに、フロイスの日本史では、
信長は仏ではなく「予自らが神体である」と言っているので、
祭祀にあたって神道の方法で行った可能性が高く、

盆山は、信長をあらわす御神体として、通常の神社の御神体と同じように、
開けられることのない扉の奥に安置されていたと考えます。

考察

Posted by 淳也