東福寺三門と泉涌寺舍利殿
2月に、亰の冬の旅で東福寺山門が特別公開されていたので見に行ってきました。
建物内では写真撮影禁止だったので、外観だけ。
二階の扉は中央部分のみ開けられ、二重の幕で覆われていたので、
内部の照明の明るさに慣れるまでは、細かい部分が良くわからない状態でした。
通常の寺院の山門は、梁のすぐ上に鏡天井が張られていて、
天井が低い感じがするのですが、
この東福寺山門は、大仏様の技法が使われていて、
二重の梁に、化粧屋根裏で垂木があらわれていて、
中央部分にのみ鏡天井が張られています。
と説明してもよくわからないと思うので、亰の冬の旅サイトから
室町時代の応永32(1425)年に、足利義持によって再建されたものです。
午後からは泉涌寺に、
泉涌寺の舎利殿は、慶長年間に建てられた内裏の御殿を移築し、
上層部を付け足したことにより重層に変えたもの、ということです。
泉涌寺は現在、真言宗泉涌寺派総本山となっていますが、
明治以前は、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とされ、
創建当時から中心伽藍は禅宗風に作られていたので、
舎利殿も禅宗風にするために、内裏の御殿を移築した時に、
上層部を付け足して重層にしたものと思われます。
さて、摠見寺境内絵図にかかれた本堂ですが、
泉涌寺の舎利殿のように、二階部分はほとんど高さが無いようにかかれています。
また、木曽路名所図会の図においても、
摠見寺本堂の二階の窓に、人の姿らしきものがかかれていますが、
窓から覗いているのは胸から上だけで、
頭のすぐ上に窓枠がかかれている事から、
窓の高さは一尺五寸前後位の、高さの低いものであったと考えられます。
前回までの考察で、
摠見寺本堂は、大池寺(青蓮寺)から移築されたものと考えましたが、
大池寺は、鎌倉時代末期に東福寺開山、聖一国師の高弟によって、
天台宗から禅宗寺院に変わっているので、
もともと大池寺にあった中世密教本堂を禅宗仏殿風にするために、
泉涌寺の舎利殿のように上層を重層に改造してもおかしくはなく、
法系は東福寺のものなので、東福寺開山堂のような二階建てにする事もあり得る事で、
また、東福寺山門のように大仏様の技法を使って建てれば、
二階の外観は禅宗仏殿風に高さを低く取っていても、
室内の高さは、外観の見た目より天井を高めに確保でき、
また、窓枠から覗くのが胸から上という事は、
胸から下は窓枠より下にあるはずで、二階の床面は、
下層の屋根が上層に取り付く位置より、低い所にあると考えられます。
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