圓光寺学校
摠見寺の事実上の四代目住職は“圓光寺学校”とされているが、
これってどう見ても組織名であって、
個人名ではないのではないかと思われるので、ネットで調べてみた。
>圓光寺学校
>慶長6(1601)年に徳川家康が、足利学校第9代目学頭の
>三要元佶(さんようげんきつ)(天文17(1548)-慶長17(1612)5/20)
>を招いて伏見に開いた学問所。 僧俗を問わず入学を許し、
>孔子家語(こうしけご)貞観政要(じょうかんせいよう)などの漢籍を刊行した。
>このときの書物は伏見版、圓光寺版と呼ばれ、現在も圓光寺には
>我が国最古の木製活版52,320個が残されており、重要文化財になっている。
>三要元佶の死後、圓光寺は相国寺に場所を移し、
>更に寛文7(1667)年に現在地の一乗寺に移転して今日に至る。
やはり“圓光寺学校”は組織名のようだが、組織の代表者クラスになると、
個人でも組織名で呼ばれる事が現在でもあるわけで。
摠見寺の正仲剛可は元相国寺の僧であり、
圓光寺は三要元佶の死後、相国寺に場所を移転しているので、
圓光寺の二代目住職は、相国寺と深い繋がりがあると考えられ、
正仲剛可と圓光寺の二代目住職とは、相国寺の関係でつながっている事になります。
また、圓光寺開山の三要元佶は慶長17(1612)に死亡していて、
「正仲剛可置文」の書かれた慶長16(1611)は死の前年にあたるので、
「正仲剛可置文」の書かれた頃には、圓光寺の事実上の責任者は
二代目住職に移っていた可能性もあり、
“圓光寺学校”とは、元相国寺僧の圓光寺二代目住職の事だと考えられます。
と、勝手に推測しましたが、
圓光寺の関係者に関する資料をもう少し調べてみないと、
はっきりした事は解らないので、その辺は今後の課題ということで・・・。
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