初期の摠見寺住職
最近の?学説では、摠見寺の歴代住職は
実際の開山が尭照、
公式の開山が正仲、
正仲死後に 玉甫、
その後 圓光寺学校、
という事になっているが、
正仲死後に住職になった玉甫は、織田系譜によると天正19年10/24に死亡、
玉甫の息子の正仲は、慶長16年1/8に死亡(舊記寫)で、年代が矛盾している。
「織田信長と安土城」の作者秋田裕毅氏は、正仲の死を天正16年の誤記と考え、
死亡年代が前後する矛盾を解決しているが、
摠見寺が江戸時代における寺の基本構成を作ったのは、天正20年の秀吉の土地寄進から、
慶長9年に行われた書院・庫裏・鎮守社・三重塔の修理によってなので、
慶長16年に圓光寺学校宛に文書が書かれるまで、無住であった寺に、
これほどの整備や寄進がされるのは非常におかしいので、
摠見寺の整備状況から見れば、正仲の死は記録通り慶長16年であると考えられる。
玉甫(織田信安)の死亡年については、天正19と慶長19の二説があるらしいのだが、
信安の息子が、信長の家督相続争いの時に、
同じく相続争いで親の信安を追い出していることから、
年齢は信長より一世代上であるはずで、天正19頃には70以上にはなってるだろうから、
玉甫が慶長16~19に摠見寺の住職を務めるというのは、ちょっと無理がある。
住職の年代が矛盾する原因は、「記録写」にある、
正仲死後に俗入道といえども玉甫が住職として・・・
という部分にあり、この「記録写」の原本に、
開山上人の死後玉甫が住職として・・・ と書かれていたと考えれば、
住職の年代が矛盾する問題が解決します。
なぜなら、実際の開山は尭照であり、公式の開山は正仲なので、
尭照の死後に玉甫が住職になったとすれば、
元記録の筆者は、開山上人=尭照と思って書いていても、
江戸時代の人は、開山上人=正仲だと思うはずで、
開山上人の死後玉甫が住職として・・・と書かれた元の記録を、
親切に、正仲の死後玉甫が住職として・・・と書き換えてもおかしくありません。
ということで、初期の摠見寺住職は、
通説とは、正仲と玉甫が入れ替わって、
創建から天正14年まで尭照、
天正14年の尭照死後、天正19年まで玉甫、
天正19年の玉甫死去から慶長16まで正仲、
慶長16年の正仲死去以降、圓光寺学校、
であると考えられます。
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