一支寸法は174mm 0.5714尺
摠見寺本堂の元になったと思われる、鎌倉~室町期の中世密教本堂では、
支割による単位寸法が使われているのが普通なので、
摠見寺の一支寸法を考えてみます。
まずは、一支寸法の範囲ですが、
南明寺の8寸から禅宗寺院系?の4寸ほどまであるうち、
中世密教本堂では主に、5~7寸辺りが使われる事が多いようです。
また、ほとんどの場合において、正面中央間は偶数支になるので、
摠見寺の正面中央間の8尺を、12支か14支のどちらかで
割ってある可能性が高いと思われます。
では、12支か14支のどちらかというと・・・。
「織田信長と安土城」秋田裕毅著によると、摠見寺本堂の大きさは、
桁行六間一寸、梁行六間六寸 と書かれ、
「発掘調査報告書6」によると、
梁行6間6寸、桁行6間1尺 と書かれています。
微妙に違うのは、元にした資料の書き方に違いがあると思われるのですが、
発掘調査報告書の図面を調べてみると、
1間=6.5尺として、
桁行きは41尺=6間1尺が正しいと思われます。
問題は梁行きの方で、
どちらの記録も梁行は6間6寸なのですが
どう見ても、桁行きの41尺より長いように見えます。
始めは、6間1尺6寸の1尺を書き落としたと思ったのですが、
桁行きの記録が尺と寸を間違えているように、
梁行きも尺と寸を間違えた可能性の方が高そうな感じがします。
梁行きを6間6尺=45尺と仮定して、8尺を14支で割る、
一支寸法0.5714尺で図面上の梁行き方向を重ねてみると、
前から14・14・16・14・13・8支の位置で礎石と重なります。
北側端の礎石列は、発掘調査報告書では縁束の礎石とされているのですが、
本堂北側以外からは発見されていない事から、
この北側列の礎石は、脇壇の礎石と考えます。
で、合計支数79支は尺で言うと45.1尺、ほぼ6間6尺と等しい値になります。
ちなみに8尺を12支で割って配置した場合、梁行き方向は、
前から12・12・14・12・11・7支となって、
合計支数68支で45.33尺、14支の場合よりずれが大きくなります。
また、中世密教寺院を禅宗仏殿風に改造される経緯から考えても、
支割りが小さい方が禅宗仏殿に近いので、
摠見寺本堂の一支寸法は、0.5714尺=174mmと考えます。
(遺構尺として1尺=304.515mmを使用
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