毘沙門堂御舞台
信長公記に書かれている、
摠見寺 毘沙門堂御舞台 については、
秋田裕毅氏の考察「織田信長と安土城」
による形式で良いと考えられます。
異常に?細長い、江戸時代の 摠見寺 書院が、
信長当時の能舞台の桟敷席を改造したもので、
能舞台は、庫裏跡の北西隅、地謡座を石垣線に合わせ、
後座は懸け造りにした状態で配置して、
南西隅の張り出し部分に、毘沙門堂兼鏡の間を配置すれば、
橋掛かりは、通常より多少短いものの、敷地内に
能舞台と桟敷を配置することが可能です、
この配置であれば、発掘調査報告書P19にある
「建物9に直接伴うものとは考えられないが、建物9の南側、
石組水路の東側に直径3m程度の円形に瓦片及び炭化物を多量に含む
黒色土が集中する箇所が認められる。」
という部分は、創建当時の住職が真言僧の尭照であることから、
毘沙門天の柴灯護摩を焚いた跡と考える事ができるので、
摠見寺 毘沙門堂御舞台の配置は、発掘調査の結果からも、
秋田裕毅氏の配置案で良いと考えられます。
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