摠見寺裏門 (超光寺山門)

2010-01-02 18:53:35 | 

江戸時代の摠見寺裏門は現在、超光寺の山門になっている。

この門については、摠見寺跡の発掘調査によって、摠見寺の裏門の礎石と
柱位置が一致し、たしかに摠見寺からの移築であると、証明されたのだが。

寛政3年9月に書かれた「境内坪数並建物明細書」の記録と若干違いがある。

ということで、今回はこの違いについて見ていきます。


「裏四ツ足門明キ八尺」超光寺山門の間口部は2m30cm、扉の大きさは普通、
軸穴距離で表すから、八尺でOK。


「唐居敷」門扉は現在、藁座にはめられているのですが、その下の礎石が、
唐居敷風に敷かれているので、元は唐居敷があり、腐食して傷んだので、
移築の際には使われなかったと考えられます。

「丸柱」現在も丸柱なのでOK。

「破風懸魚鰭付」現在懸魚はあるものの鰭は付いていませんが、
鰭は小さい部材で腐食しやすい位置にあるので、破損して紛失したと考えられます。

「二軒椽」室町時代風の、反り増しの強い二軒なのでこれもOK。

「獅子口弐ツ屋根瓦葺左右高塀屋根各瓦葺」これも現在と同じ。


これらは記録と現物が同じでOKなのですが・・・

「枡形三ツ斗」柱の上は大斗で桁行き方向のみ肘木がのる構成で、
三ツ斗では無いので、記録と違いがあるのですが、見方を変えると・・・、
梁行き方向には大斗が三つ並んでいる→大斗が三ツ→三ツ斗???
とりあえず、こう考えるしかないようなので、結論として、
記録した人は、あまり建築に詳しくないようです(^^)。


「雲板・大瓶束」この二つは現在の超光寺山門には使われていません。
雲板については、左右の高塀の屋根瓦があたる位置に付けられる柄振板の事を、
言う場合もあるので、あったとしても良いのですが、

門の中央部分には撥束が立ち、破風部分は板蟇股、
中央で棟木を支えるのは角材の束、各部材共、後補とは考えにくいので、
大瓶束が使用された形跡は全く無いと思われます。

では、どうしましょうか・・・・・・?
と思っていた所、初詣で山車を見かけて解決法を思いつきました。
山車などでは、破風の部分の彫刻を「大瓶束」と呼ぶ場合があります。
もともとは普通の大瓶束があり、その周りに彫刻が付いていたと思われますが、
江戸時代になると、山車が過度に彫刻化したために、彫刻と大瓶束の
区別が付かなくなって、破風部分の彫刻が大瓶束と呼ばれるようになりました。

建物明細書の記録を書いた人は、先ほどの「枡形三ツ斗」の例から考えると、
あまり建築に詳しくないと思われるので、


記録した人は、板蟇股という言葉を知らなかった→
記録した人は、破風部分の彫刻は大瓶束と呼ぶと思っていた→
板蟇股は禅寺で使われている雲板に装飾が似ている→

雲板に似ている大瓶束なので、これは雲板型の大瓶束だ→
雲板型の大瓶束だから→雲板大瓶束と記録しよう・・・(^^)

とりあえず、これ以外では記録にある大瓶束を理解できないので、
記録の作者が言う所の大瓶束は板蟇股の事であったと考えられます。


これらの考察から、裏門に関する記録の、
「枡形三ツ斗」と「雲板・大瓶束」は文字通りの形状ではなく、
梁行き方向に大斗が三つ並び、
破風部分は板蟇股であると思われるので、

現在失われてしまった表門についての記録にのっている、
「枡形三ツ斗」と「雲板・大瓶束」も裏門と同じく、
梁行き方向に大斗が三つ並び、
破風部分は板蟇股であると考えられます。

Posted by 淳也