信長の墓1
安土城、伝二の丸跡にある信長の墓は、
亀甲積で作られた二段の台座の上に、
自然石がのせられているという、
変った形をしています。
この墓が現在の形になったのは、
伝二の丸の下に立っている
護国駄都塔の裏に彫られた文から、
天保年間(1830~1843)の
改修工事によってだと
考えられるのですが、
天保の改修以前の記録をみると、
文化二(1805)年発行の
木曽路名所図会の図では、
信長の墓は五輪塔として画かれていたり、
元文二(1737)年8/5の仁正寺大守代々登山記録では、
「天主卵塔 表坂百々橋迄 裏坂江藤道筋 掃除申付ル也」
というように、信長の墓は卵塔だと書かれています。
それぞれの記録をまともに信じると、
信長の墓は、
卵塔→五輪塔→自然石
と三回形態が変えられたことになるのですが、
宗教的な考え方からいえば、
故人の身体と同じとされる墓石の形を、
改修の度に何度も変えるのは不自然ではないでしょうか?
と前から思っていた所、
二月に行った東福寺で丁度良い解決策を見つけたので、
次回は東福寺にあるお墓を紹介します。
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